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日常、ゲーム、その他のことをぼちぼちと話す場所。

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注意

 何度か取り上げた話題なのですが、私は高校へ自転車で通学しているのですね。
 どうやったらそこまで遅く走ることができるのか理解に苦しむ連中がいることは……書いてませんでしたっけね。ともかく、そういったノロマ連中にも我慢しながらずっと乗ってきたのです。
 
 で。
 最近気になるのは、注意力のない乗り手が多いということですね。
 今日、先ほど塾に行ってきたのですが、その帰り道に右折しようとしていたのですね。いつでも曲がる時には十分減速して、まるで『家政婦は見た』の市原さんのように曲がり角をうかがうのですが、私がその曲がり角にさしかかろうとした刹那、ぐるりと、小学生ぐらいですかね、男の子が曲がってきて、私の顔を見るや否や驚いてブレーキを踏もうとしたのです。面倒なので、ちょうど車も来てなかったから私からかわしたのですが、過ぎ去って私も曲がり、ふと、何であの少年はあそこまで速いスピードで曲がることができたのだろうと思ったのです。

 曲がり角って危険じゃないですか。特に左右に道が広がっている場合なんか、車と左右から来るかもしれない人に十分注意しなければならない訳です。前記しましたが、私は十分減速しないと曲がりたくない性質なので、しっかり踏んで恐る恐る曲がるのですが、中には物凄いスピードで曲がるタコもいまして……彼らは急いでいるのかと問いたい。お前の用事は他人の人生を変えることもいとわないものなのかと問い詰めたい。

 そうでなくとも、これも前記しましたが、最近のチャリンコ乗りはテクニックの低下が著しいと思うのです。

 1つに立ちこぎ。そりゃ加速する為にやるのはわかりますし、坂道ならば絶え間なくやらなければしんどいでしょう(私は立ちませんけど)。でも、真っ直ぐの道で立ちこぎって、お前座りこぎでスピード出せないのかと。
 私の持論では、座りこぎの方が圧倒的にスピードは出るのです。直線であれば、立ちこぎからスタートの人と座りこぎの私とでは、私が多分勝ちますよ。だって立ちこぎで出せるスピードはすぐに限界が来ます。そこから座って更に加速するのが筋なのに、どうしてあそこまで立つことに拘るのか私には全く理解できないのです。

 それと、歩行者への対応。
 基本、歩行者が一番有利なんですから、普通の心理としては歩行者を相手にする時には最大限注意すると思うのです。車が自転車乗りに細心の注意を払うように、我々も歩行者に対しては最低限の配慮が必要だと思うのです。
 ところがどっこい、私の通学路には右側に歩行者専用の道があるのですが(お寺の近くなので、観光客の為に整備されたのです)、その道を平然と進む我が学校の生徒。入り組んでいるのでスピードも出せないと思うのですが、気にすることなく何台もの自転車がそこを進んでいるのです。道にはもちろんバス停があるのですが、そこで待っている人にわざわざ避けてもらってまで進む図々しさ。そもそも自転車は左側通行なんですから(私も最初は右側で、もちろんその道は使いませんでしたが進んでいましたが、途中で左の方が“圧倒的に”楽だと気づいたので変えました)左から行くのが道理ですし、互いに楽だと思うんですけどね。
 
 それと、自転車の用途を分かっていない連中が多い。
 歩くのが面倒だから自転車を使っていると思うのですが、歩行者とどっこいどっこいのスピードってどうやって出すんですか? と。
 だからか、私が普通に自転車で進むと、よく帰宅途中のノロい自転車を複数抜かすのですが、抜き去ると「速!」という感嘆の声。申し訳ない。うちの母親はママチャリで変速自転車を使っている私ばりのスピードが出せるのに、この程度で驚いてどうするんですか。
 
 いや、まあ速く走れとは言いませんよ。時に邪魔ですけど、それは私のエゴですから我慢します。
 でも、何で横に並んで走るんですか? しかもそういう連中に限って遅いんですよ。どうやってこいでるのか理解できないスピードで。更にそういう連中に限って、私が抜かすと「速!」とか訳の分からない言葉(意味はあると思うのですが何言ってるのか聞き取れないのです)を投げかけてくるんですね。
 
 今日も彼らはまともに減速せずに曲がり角に突撃し、立ちこぎに固執し、3台ぐらい並んで歩行者と同レベルのスピードで他愛のない会話を交わしながら進んでいるのでしょう。
 苦情受けて迷惑被るのは私のような善良な自転車乗りであることを忘れて欲しくないものです。

 ……まあスピードの出し過ぎも迷惑でしょうけどね(笑)。
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こども

 
 今季のアニメは正直何にも見る気にはならなかったのです。だってどれもこれも普通そうじゃないですか。
 普通のアニメの何が面白くないかって、大体そういうアニメはLOVEなんですよ、悲しいことに。恋愛ものの面白さが分からない私ですから、ダ・カーポとかいうのはハナから論外だったのです(知り合いは大絶賛してますが)。

 まあ木曜日の『こどものじかん』ってのは、ニコニコ動画で予告みたいなの見て、頭に蛆湧いてるんじゃないかと思えるものでしたが、ナイナイのオールナイトニッポンを犠牲にしてまで見る価値は皆無だろうと思っていたのです。
 ですが一方的に「面白くなさそう!」と否定するのは人間の道から外れた行いですから、せめて見てから批判しようと、そう思って一応「こどものじかん」は見てみたのです。

 ×××

 知らない人のための解説。
 新任先生が小学校三年生の児童を相手に、様々な事件に巻き込まれながらも生徒達と一緒に成長していく、いわゆる「さわやか三組」みたいなハートフルストーリー(違)。
 いや、大筋は間違っていないんですよ。
 
 で、私の見る前の偏見。
 ロリコンの為のアニメ。
 小3とは思えない心と身体の発育。
 とにかく変態。

 ×××

 で、見ました。
 多分はまる人はどこまでも落ちていくでしょうね。
 前評判に違わず卑猥ワードが流れ、しっかりピー音まで入ってました。今二つの放送局しかやってないんでしたか。まああれですよ、内容は真面目と不真面目のバランスを保とうと努力している作者さんの苦労が目に見えるようで、目尻にうっすらと涙も浮かんでしまうようなアニメでした、マル

 まあ悪くはないですよ。でも興味本位で見るべきアニメではないことは確かです。

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友達

 小学生の頃、こんな歌に心ときめかせたものだ。

「一年生になったら~一年生になったら~友達百人できるかな~♪」

 保育園を卒園してから引っ越した私は、小学校一年生の頃、周囲の子を誰も知らない状況にいた。もちろんもう何年も前のことなので、当時の私がどう思っていたかは分からない。本来人見知りの激しい私だったが、当時の思い出を考えてみると、意外と積極的に友達を作る努力はしたようだ。五年生、六年生と良いところカードというものを作らされたが、多くの人が私のことを「明るい」だの「面白い」だの評してくれていた。
 小学生の時の私は底抜けに明るかったのだ。
 先生全員に名前を知られることを望み、皆の中心にいたいと思っていた。他人の気をひく為におかしな言動、行動もよくした(だから今でもそういう行動をすることに躊躇いはない。思えばこの時分に自尊心を捨てるきっかけのようなものを掴んでいたのかもしれません)。

 だが中学生になり、持ち前の人見知りと、思春期特有の気恥ずかしさで私は表舞台から姿を消した。目立つのは髪の毛を染め、悪ぶった奴だった。私は大人しいキャラを演じ、不安定な思春期をその不安定さが呼び込んだ事件に苛まれながら生きてきた(だから中学校の時の思い出を語れ、と言われたら、私は断固として拒否するのです)。
 
 今に至る。私は順調に友達と呼ばれる人達を減らし続けている。友達とは何なのか。人付き合いをする上で、私はいつでもそのことを考える。誰が友達で誰が顔見知りで誰が他人なのか。他人のラインを引くことは簡単だが、顔見知りと友達の境界は未だに曖昧だ。
 
 人付き合いが怖いというより、むしろ面倒くさくなった感がある。好き嫌いで判断される高校内での単純な仲良し構図に飽きたので、他人に敬遠される話(卑猥な話とか、無闇にマニアックな話とか)をして、なるべく会話を長続きさせないようにしている。要するになるべく一人でいたいのだ。
 そしてそういうスタンスでものを考える以上、不用意に他人を嫌うのは意志に反する気がして、私が本当に嫌いな人間というのは今のところ三人しかいない。大体の人を公平に見ている自己満足な考え方という訳である。

 小学生の頃は大いに友達なり何なり作れば良い。それが後の人格構成に大きな影響を与えるのは間違いない。
 だが高校生なら、友達とか親友とかそういう類の者はどんどん減らすべきだ。多いに越したものではないのだ、人というのは。

 彼らは私に何かを与えたが、同時に私から何かを奪った。
 人間関係なんてものは常に奪い合いだ。それはプライドであったり、我慢する心であったりする。人は成長することができるが、同時に退化することもできる。だから人間関係は常に諸刃の剣なのだ。 
 円満な人間関係なんて望まない方がいい。
 他人と付き合うということは、いかに自分のスタンスを守るかということに他ならない。人間関係に多くを求めてはいけない。そんなものは中学で終えるべきだ。

 かといって人と付き合うことを軽視するな?
 まことにその通り。認める。軽視はできない。
 だが、それでも私は無口になり続ける。

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限度

 この時期になると、決まって体調を崩す。主に私は鼻から、の黄色のベンザでどうにかなる程度のものなのだが、それでも鼻の調子が悪いととても気分が悪い。

 鼻というのは難儀なことに、持ち主の思いのままにならない機関の一つである。鼻がつまっているとそれにつられる様に余計なことがたくさん起こる。例えば私の場合はいらいらしたり、鼻のかみ過ぎで真っ赤になったり、外にも内にも被害が来る。鼻が取り外し可能であればどんなに楽だろうと思うが、できたらできたで困る。
 仕方なく薬でごまかしても、薬はあくまで鼻水が流れるのを食い止めてくれるだけで、それだけだ。つまりは取れないし、鼻には何か錘をつけたような嫌な重さがある。鼻をすすると、ずるりという遠慮のない大きな音がたつ。他人の鼻をすする音というのは気になるので、自分がその発信源になっていると思うと嫌になる。
 
 鼻のつまりがあまりに嫌なので、一時期こよりを作って文字通り風穴をあけようとしたことがある。ティッシュを巧妙に細長くして、それを鼻に突っ込む。一瞬恍惚に似た何かが脳を刺激し、激しくくしゃみ。でも何も残らない。期待する展開は、突っ込んだティッシュを抜き取ればどろりと鼻水が垂れ流れてくることなのだが、無論そんな風にはならない。むしろ悪化し、また風穴をあけようとして悪循環。そうして長引く訳だ。やはり何事にも限度がある。

 今もだが、耳掃除にこっている。綿棒を耳に突っ込み、ぐりぐりいじる。滅多に耳垢は取れないが、綿棒で耳の中を撫でるという行為が気持ちいいのだ。それで調子に乗って耳をいじり過ぎると、どこかを傷つけてしまい耳にかさぶたができ耳痛が襲い掛かる。しかもかさぶたが痒みを誘発するので、またいじりたくなる。いじれば再び悪化し、痒みでまたいじり悪循環。そうして長引く訳だ。という訳で、何事にも限度がある。

 最近塾にすぐに行くようにしている。当初は自習部屋での勉強時間を増やす為だったが、最近はすぐに帰ることにしている。やはりこの時期だから同学年の人が多い訳だ。そこの部屋には机が8つあり、隣同士の間隔はないに等しい。だから人数が少なければ1つあけて座っているのだが、人数が増えれば隣に座らざるをえない。私は早いのでそんな憂き目にあうことはないが、しかし席が埋まれば見知らぬ誰かが隣に座ってくる訳だ。もしも間隔がそれなりにあいていれば我慢の仕様はある。だが袖が触れるか触れないかの距離まで隣接されるのは、モチベーション的によくない。全くよくない。
 まああまたの男性ならば、隣に男性が座るなら嫌で、もしも麗しい女性が座るならば満更でもないのかもしれない。しかし相手は私である。男女平等に“嫌”な私は、太陽が西から昇る可能性と同値の女性が隣に座るという状況に直面したとしても、あっさり席を立って帰るだろう。隣に“人間”がいるという状態が耐えられないのだ。それに、あんなに狭い部屋にあれだけの人間が押し込められると必然的に嫌な暑さが部屋を包む。それに耐えながら勉強をするほど、私だって寛大ではない。というか、耐えてまで勉強する価値があるかといえば否だ。ならば早く帰り、家でした方がよほど効率がいい。やはり人数にも限度は存在するのだ。


 つい最近、某亀親子の次男が試合をしたらしい。このブログでは取り扱わないと言っていたが、次男なので扱う。
 後半は総合格闘技と化して一転パフォーマンス試合になったらしいが、終了後大バッシングがあったようだ。まあ当然だろう。しかしその矛先は親子よりも放送権を持っていたT○Sに向かっていたようだが。
 昨日の謝罪会見(みたいなもの)で終わるのだろうが、世間の人は、不用意な発言をのたまいすぎた報いだと見るのかもしれない。が、大体1つのスター(のようなもの)を作り出したのはマスメディアであり、それを祭り上げたのはマスメディアを通した我々であることを忘れてはならない。親子をバッシングする心境は分からないでもないが、どうせ批判している人の中には、「いかしてるよね~」とか言っていた頭のネジが緩んだ方もいるのだろう。チャンピオンの内藤選手は騒動の終了を高々に宣言していたが、そもそも騒動そのものが起こるべきではなかった。親子には適当に処分を下し、後は内藤選手の強さを褒めていれば良かった。メディアが声高に何やかやとくっつけるから、ここまで大きくなったと思わずにはいられない。
 それともこの一連の騒動は、我々視聴者に対する娯楽の提供、親子もグルの茶番なのだろうか。なるほど。

 しかし次男、無言じゃなくて、某女王様みたいに泣けばよかったんじゃないかな(笑)。

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 昨夜、ベッドの上でまどろんでいると、大きな声が外から聞こえてきた。耳を澄ませると声の主は女の子二人のようで、互いに笑いながら道を進んでいるらしかった。

「はい、オッパッピー!」

 何事かと私が腰を上げたのは言うまでもない。
 どうやら女の子二人は、今テレビでそこそこ話題の小島よしおの動作をしながら歩いているみたいで、同じような言葉を並べながら、その度に大爆笑していた。何が楽しいのか、ベッドの上でボーっとしている私には皆目見当がつかないが、まあ本人達にしか分からない何かがあるに違いない。
 彼女達の笑い声は遠くからでも聞こえた。

 小島よしおを私が初めて見たのは、TOKIOが進行役のメントレGとかいう番組でである。その時から彼は一体何がしたいのか、そして何が面白いのか全く分からなかったが、私が運動量保存則を理解しようと躍起になっている最中、彼は順調にテレビに出演し、いつしか流行語大賞(あの一発屋の為の賞)を受賞するか、というところまで行き着いてしまった。まあ正直な話、ルックスが生理的に受け付けないので長時間の鑑賞はできない。

 ある日彼はリンカーンに出演し、ダウンタウンの松本人志と絡んでいた。松本は笑いにレベルをつけているものだから、恐らく屈辱以外の何者でもないはずのオッパッピーをやらされて、ひどく落ち込んでいた。
 
 昨夜の女の子、そしてこの松本の顔を思い出し、私はどうしてこういったインパクトを持った芸人が一時的に受けるのか、理解できた気がした。恐らく彼らの芸風は、一般人に真似してもらえることが前提なのだ。テツ&トモしかり、ギター侍しかり、長井秀和しかり、彼らは一般人が気軽に使えるフレーズを武器に人気を得た。一般人はそれを用いて、他人が使っているフレーズを使ったという羞恥心と、そこからくる得体の知れないおかしさに笑ってしまい、その笑いがあたかもその芸人達から与えられたものであるように錯覚してしまうのである。もちろん彼ら自体が面白いのではなく、そのフレーズを使ったという行為がおかしさを各人に与えるのである。
 だから、松本人志は口では色々言っていたが、顔は少し緩んでいた。元来笑い上戸だからかもしれないが、嫌々やった自分の境遇におかしさを感じたのだろう。

 ×××

 ところで私は、笑いのレベル、という概念はおかしいと思っている。
 笑いなんてものはおしなべて下等(もちろん良い意味で)であり、そんなものにレベルという概念を持ち込みたがるのは関西人らしいと鼻で笑っているのである。

 こんなことを言うと関西人の方には顰蹙を買うと思うが、吉本新喜劇のようなベタな笑いを好む関西人が、お笑いに関してあれこれ言うのは馬鹿げている。確かに私も昔は好きだったが、今ではもうネタが分かってしまっているので笑えなくなってしまった。これは私の笑いのレベルが上がったのか下がったのか、誰にも分からないはずだ。なぜならそのことは他人と私との笑いに対する捉え方の違いによるものであり、レベルとかの問題ではない。

 関西人は関東のお笑いに厳しい。単なるやっかみから来る対抗心だと思うが、そうでなくとも、捉え方の違いが大きな要因であるように思う。
 喋りで笑いを引き出そうとする関西人に比べ、関東の笑いは小道具を使ったものが多い。どちらが悪いという訳ではなく、その割合が異なるだけだ。関東の笑いにも言葉は必要だし、関西の笑いにも小道具は必要である。
 
 なかやまきんに君がアメリカでうけたことがそれを証明している。だったらアメリカの笑いのレベルはどうなるのだ(失礼)。

PS:今更ですが、敬称は省略してます。
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